救えない。あいつの痛みは想像するしかなくて、底の深さは決してわからない。あいつの痛みはあいつのものでしかない。「可哀想」にするのも「あいつ自身が悪い」にするのもいつだって他人。どれだけ言葉と言葉、目と目でレベルを合わせても、その痛みの根源も深さも長さも、そいつにしか分からない。「救う」と言い、「救いたい」とも思うけど、それは本当に「救う」ことができて初めて説得力が出るわけで。「救いたい」と簡単に口に出すことは、ただ単に他人の痛みに勝手に値をつけて「救う」と決心することで自分自身が安心しているだけ。ある意味ギャンブルで、無謀。無責任で身勝手だろう。ならば「救う」のではなく、「掬う」のなら俺にもできるだろうか。最悪の一歩手前まで。「拾う」。「掴む」。これはある意味、願いで祈り。掬えるだろうか?そう思うことすら傲慢なのだろうか。傲慢ならその傲慢な手を広げるだけ広げてみる現状維持の今日。