雪が何度か降り積もって溶けるのを見た。結露した窓に掌を当てると手形が残ってそこから水滴がゆっくりと伝った。千葉で生まれ育った男にとっては東北の雪は厄介なものだった。スニーカーは外に出る度にぐっしょりと濡れて、足先が凍えているのが常だった。夏には青々としていた木々に雪が積もって、前の車が作った轍がどこまでも続いていくのを見た。ゆるり、ゆるりと時間は過ぎた。
この2ヶ月弱の間で秋田はすっかり雪国へと姿を変えていた。その間に俺は何をしていたかというと、秋田出張の延長が決まったり、灯人の2022年最後のライブを早々に終えたり、祖父のことを綴ったブログの記事が冊子に載せられて多くの人の手に渡ったりした。仕事はとてもルーティンワークと呼べるものではなくなっていて、毎日新しい問題が降りかかったり、測定結果に不具合が見つかったり、1人じゃ抱えきれない量のデータをまとめることになったりした。土日や平日の帰宅後にパソコンを開くことが増えた。ずるり、ずるりと薄暗い沼に沈んでいく様に感じた。出張の延長が決まった日は最悪な気分で、とても物事を冷静に考えられる状況に無かった。あの日は仕事をすぐに切り上げて1人で『トップガン マーヴェリック』を鑑賞した。良い映画だった。お陰様で数時間前に決まった秋田生活の延長を冷静に受け止めることが出来た。次の日に灯人の2022年最後のライブだったが引き摺らずに演奏できた(気がする)。ドラゴンさんには「追い詰められてる人の顔をしてる」と楽屋で言われたが。
12月。秋田に戻って一週間後くらいに最初の雪が降った。吹雪は部屋の外を真っ白に染めて、見慣れた景色は急激に色を失いモノクロになった。昨晩車に降り積もった雪を落とす作業がモーニングルーティンに加えられた。洗礼を受けていた。千葉ではとても出来ない経験だった。豪雪地帯で暮らす方々は関東の人々に比べたらよっぽどタフなのではないだろうか?
金曜と土曜は大体決まったお店で過ごした。ライブも何本かやった。ライブをする度にフライヤーが名も知らぬ誰かの手に渡り、CDが売れて、SNSのフォロワーが増えた。顔見知りの人もかなり増えた。出張が決まった時や延長が決まった時はかなり落ち込んでいたが、毎週末お店に行く度に凍えた心は少しずつ溶かされていった。
秋田で出来た人間関係は俺にとって本当に心地が良かった。
どうしてこんなにも心地良かったのだろうか?
きっとこの街の人には嘘が無いからだ。
秋田の人には本当に良くしてもらった。
お店で頻繁に会う方がライブの時に俺の好物の生姜焼きを作ってくれたり、お店のママがお弁当やカレーを帰りに渡してくれたり、「必ず千葉に会いに行く」と飲みに行く度に話しかけられたり……とても数えきれない。その俺に向けられた愛情には棘やささくれは一つもなかった。秋田を発つ一週間前、朝3時頃に「ヒロキが千葉に帰るのが本当に寂しい」とおしぼりを目に当てる姿を見た時。言葉や表情の裏ばかりを窺って、傷つかない様に受け身を取る体制ばかり取っていた自分を心底恥ずかしく感じた。純粋な言葉は取り繕っていた自分の心をノックした。
昔から傷つくことは多かった。今でもそれは変わらない。仕事で自分の不甲斐なさや甘さに傷つき。ライブハウスであまり良いライブが出来ずに傷つき。SNSで華やかな投稿をしている誰かと比べて傷つき。その裏返しで不貞腐れて人や物事を斜に構えて見る癖がついた。そうでもしないと自分が保てなかった。どこかで取り繕ってしまう自分をぶら下げていた。そんな状態では本当の言葉もブロックしてしまう。いつからかずっと"何か足らない"を抱えていて、その"何か"に気がつかないふりをしていた。
俺の尊敬する方はその"何か"を"血の通った人間関係"と著書で表現していた。その答えは正しいと思う。まさに"血の通った人間関係"が俺と秋田の人の間には流れていた。しかし俺が秋田の方に教えられたのは、いただいたのは、"血の通った人間関係"だけではない。
"絶対に安全な居場所"だった。
安全である、ことは心地良くどこまでも幸せでいられた。関東に住んでいた25年と8ヶ月が嘘のようだった。気を大きく使うこともなく、表情の裏を読むこともなく、ストレートに愛情を感じていた。きっとミツハシヒロキではなく、三橋広希としてお店にいたとしてもこの街の人は愛してくれただろう。本音を言ってしまえば、転職して一生この街に住むことすら頭に過った。
ただ。
今の俺を形成したのは。
今の俺が俺たらしめるのは"絶対に安全ではない居場所"だった。
傷ついたり、悔しかったり、恥ずかしかったりを繰り返していたからこそ辿り着いた現在がある。特に音楽家としてはその痛みを武器にもしている。最初は"木の棒"くらい頼りなかったそれも、今では鞘のついた"鉄の剣"くらいには強くなっているはずだ。そうやって武器をアップデート出来たのは【逃げる】を選択してこなかった(或いは選択ができなかった)過去があったからだ。"絶対に安全ではない居場所"に身を置いてきたから感じた痛みがあり、その痛みが俺の足を進めていた。
この環境に身を投じてきたのはいつだって俺だ。でもそれを辛いとも感じていた。この世のどこにも息を抜ける場所なんて無いと思っていたから。だからこそ秋田は俺にとって居心地が良かった。でもぬるま湯浸かりすぎていたままでは、俺が一番なりたい自分像には近づけない。火傷するくらいでないと駄目だった。三橋広希ではなくミツハシヒロキでいたい自分がいた。
帰りの新幹線を待つホームに雪が降り積もっていた。この街で会いたい人に会いに行くためには雪をかき分けていかなくてはいけない。会うために苦労をするからこそ、そこで渡したいのは下らない偏見やdisではなくお互いを暖め合う愛情なのだろう。大曲の花火が終わった後に観客と花火職人が色とりどりの光でお互いに感謝を伝え合っているのを観た。「秋田での最後のライブが観れないから」と俺の家までCDを買いに来た人がいた。一番長く過ごしたお店のママはお店のロゴが印字された帽子を俺にくれた。本当に欲しかったもの、そして俺がこれから返していかなきゃいけないものは全部ここにあった。
次に会う時はもっとデカい背中見せなきゃな、と新幹線に乗り込んだ。3時間後に降り立った東京は雪が積もっていなくて歩きやすかった。電車は30分で東京と最寄り駅を繋いだ。駅前のコンビニは20:00を過ぎても営業していた。あまりに便利すぎた。おまけにクリスマス一色の東京は家族連れやカップルが沢山歩いている。これでは折角もらった情熱や本当も小さくなってしまうかもしれない。誰かと比べてしまう自分にまた戻ってしまうかもしれない。折角ついた灯が弱々しくなってしまうかもしれない。
でもきっと大丈夫だ。
この灯が完全に消えてしまうことは絶対に無い。