2022/3/7 "大学生のきしょいストーリー"等のTwitterが心の底から嫌いで、こういう奴らに中指を立てることを俺は絶対に辞めないし、その中指が自分に向いていることも絶対に忘れない

タイトルに書いた通り。本当に嫌いだ。若さ故の間違いや失敗や黒歴史を認めてくれないその懐の狭さに吐き気がする。強い嫌悪感を抱く。誰も彼もが始まりは何も知らない同じ赤子なのに。10代や20代は「これ違ったなー」と「これ恥ずかしかったなー」の繰り返しだと思う。特に音楽とかライブは顕著にその繰り返しだ。一つ自分で工夫してやってみて、誰かの意見を聞いたり、自分で見返したり、時には誰かの振る舞いを見ることで修正する。客観視する。その繰り返し。

 

 

大人になると視野が広がるよね、と話した先輩がいた。視野。それは自分の周りに太い輪ゴムが置かれている状態だと俺はイメージしている。最初は体にピッタリまとわりついたそれを体をくねらせながら身動きが取れる状態まで持っていく。ある程度動けるようになったら、次は自分でぶつかって跳ね返って時には怪我することでなんとか輪ゴムを広げていく。少しずつ広がったそれの端に立つと、かつて立っていた原点を傷がついた自分でやっと見ることができる。広げていくのが遅い連中もいて、最初からダルンダルンに緩いゴムだった連中もいる。その違いは人それぞれで、間違いなく誰かに揶揄されて良いものではない。叱られることはあっても揶揄されて良いものじゃない。もしクソみたいなSNSの投稿で深く傷ついた人がいるのならば友達になってあげたい。

 

 

他人を揶揄したり正論をぶつけることはドーパミンが出る行為だ、と本に書いてあった。自分のドーパミンがガンガンに出ていた時を思い出してゾッとした。揶揄したり煽ったり正論をぶつけて他人の価値を下げる人は周りに沢山いたし、それに傷ついた人も沢山見た。そして、ここまで乱文を読んでくれた人には本当に申し訳ないが、かつて俺も同じように誰かを傷つけてきた経験がある。誰かの幼さや拙さを馬鹿にした覚えがある。傷つけられた経験もある。(ここで記事のタイトルを修正した)。自分だけ被害者面するわけにはいかないのだ。同じように傷ついて、傷つけてきたから。

 

 

俺の尊敬する人が他人の価値下げをする人ほど弱いと著書に書いていた。文化祭でみんなの中心に立って盛り上げている人を馬鹿にしていた彼は、本当はその輪の中心にいたかったことに大人になってから気がついた。価値下げをするのは、楽しいと感じられるはずだったものを自分から遠ざけてしまうのと同じだ。誰も「きしょい」と言わなければ、誰かの投稿やメッセージも一つの拙い自己表現や不器用な愛情表現だった。誰も「きしょい」だなんて言わなければ。

 

 

誰かが「きしょい」と言い始めたら自分が「きしょい」側に回らないように注意して生きなきゃいけない。その白線を越えないように丁寧に歩かなきゃいけない。Instagramのアカウントを消した大学3年の冬、俺は白線を越えるのが怖くて歩くのすら辞めてしまった。誰よりも馬鹿にされたくなかったのは、誰よりも馬鹿にしていたからだった。そして、誰よりも傷つきたくなかったのは、誰よりも傷つけてきたからだった。あのアカウントがどんな人によって運営されているのかは知らないが、本当はすごく弱くて傷つきやすい人なのかもしれない。

 

 

立てた中指の手前側。気がついたならもっと寛容になれるはず、とここに記す。乱文ですみませんでした。