distance

先日のサンストにてやった新曲の歌詞です。

最近気まずくなって話さなくなってしまった後輩に向けて書きました。奇しくも既存曲『Weekend』の回収をするような歌詞にもなりました。

 

 

距離が埋まったり、事情に折り合いをつけるには、もう少し時間がかかる気がするけど、きっと生きていればまた普通に話ができるような気がしています。

来たるべき時に「ここまでの期間にはこんなことがあったんだぜ、俺は真っ当に生きてきたよ」と胸を張れるように俺は俺をやらなくてはいけないのです。

 

 

distance

 

土曜日の夜のブルー
ぼやかして消える
日曜日 侘しさには
グレーで染める 続いていく

 

嫌な静けさになった
君との距離が埋まるための時間がさぁ
いつだって痛む

 

吐き捨てた痛みや妬みはいつだって
続く暮らしの先 待ち合わせの場所で

 

遠回りで見えた空も
「その他大勢」になる日々すらも
駆け抜けた先 見えた景色に
君が居ればいい

 

考える 何年後かの理想像
暮らしは続く また待ち合わせの場所で

 

伝えたかった言葉たちを
言えなかった期間の思い出たち
駆け抜けた先 見えた景色で
君に言えばいい

 

超える 明日とか
届く いつかには

 

超える 今までを
届け 今までを

 

2025/11/2

息を深く吸い込んだら鼻の奥が少しツンとする感覚があった。年々短くなっている気がする秋のせいで、折角ひっぱり出した春・秋物をまた引き出しの奥に仕舞い込んでしまった。こんな忙しない気候だといつか地球に住めなくなることが来るんじゃないか?と思い、行き先のない不安に襲われたりもするがきっとそんな日は来ない。来たとしても人間には知恵や技術があって、それらが新しい生活を提案してくれるのだろう。いつだって誰かにとっては希望、他の誰かにとっては絶望、もしかしたら無常と表現されて続いていく。

 

 

過ごしやすくなった夜の隙間を這うように散歩をする。コンビニに入って缶コーヒーにしようか?それとも紅茶にしようか?眠れなくなってしまうだろうか?そんなことを考えてコンビニ内をウロウロと。すぐにレジに向かいそうもない俺を見て品出しに戻る店員。こんな時間帯ばかりにコンビニに行くと段々と店員の顔も覚えてきてしまい、変な連帯感が生まれた気になる。顔見知りの店員とはよく言うけれど、もしかしたら俺たちはそんな間柄になっているか、兄ちゃん。声をかけるか迷う前にまず目の前にはどの飲み物を買うか、という重要な選択がある。少し寒いから暖かいものにしようか、でももう少し歩いたら体も温まって気がするなぁ。品出しをしつつ俺がレジに向かうタイミングを伺っている視線を感じている。耐えきれなくなってアサヒスーパードライを手にとってレジへ向かった。レジに立つ彼に何か声をかけたくなったけど、絞り出た言葉は「お疲れ様です」だった。

 

 

有線イヤホンを差し込んでビールを開けた。星がぼんやりと浮かぶ中で一人歩く。こんな夜には音楽がたくさん聴けて良い。どうしてもゆっくり聴けてなかった音楽やずっと好きな音楽も、これだけ静かだと耳を澄まして聴ける。普段の移動中に聴いているのでは見つからなかった発見がある。言葉がダイレクトに耳に飛び込んでくる気がする。一番のノイズキャンセリングはノイズそのものが無い時間や場所を選択することだ。

 

 

『手のひらが剥がれぬように振る』って良い歌詞だ。

誰かにとっては希望、他の誰かにとっては絶望、もしかしたら無常と表現されるそれを今も俺は続けている。

 

私

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2025/10/17

「何考えているかわからない」と言われるほど何も考えていないし、
「何も考えていないだろ」と言われるのが釈然としないくらいには何かを考えている。
好き勝手言いたいことを言われて「また誤解させてしまった……」と落ち込めば、
そもそも『きちんと伝えれば誤解させない』という前提そのものが大きな傲慢であると知る。
俺には俺のキャパシティがあって、誰かには誰かのキャパシティがあるのだ。
俺には俺の闘争があって、誰かには誰かの闘争があるのだ。
推し量ることしかできないのだろう。
きっと、多分、そう。
そうやって話をすると、「言葉ではこう言ってるけど本心では……?」をつい考えて。
余計な疲弊ばかりをする。

 

 

「まぁそんなもんだよな」と呟くことは果たして諦めなのか。
自分を守るように呟くそれの最後にwや(笑)を付けながら今日も終わる。
「それでいいのだろうか」に続く言葉を疑問符と共に探している。
そして書き記してみる。いつかそれは表現になる。

 

 

繰り返している。
今日も、明日も、明後日も。

2025/7/20 最近

時間が経っても癒えない傷や痛みや悩みが多くなった。それらが完全に治らないことも増えた。「悩めるのは体力があるからだ」とか「悩める時間があるのが羨ましい」とはよく言うけれど、どんな生活をしていても、誰もが皆何かに悩んでいて、何かを抱えていて、何かを不安に感じているものだと思う。俺も。或いはこれを読んでいる貴方も。もしくは名前の知らない誰かも。

とにかくここ最近は傷が傷跡になる前に見なかったふりをして、やり過ごすことが増えた。そんな年代になったとも言えるし、何かを諦めてしまったとも言える。日々ため息や酒や散歩、もしくはそれらの同時進行でうまくやり過ごしている。特にここ一、二週間は多々ありすぎて、ずっと体調が参ってしまって本当に困っているが。

 

 

相変わらずバンドばかりしている。弊バンド灯人はこの数ヶ月の間にサンストとの共同企画と自主企画を一本ずつ、その間にsonicという曲をリリースした。精力的に活動している、のだと思う。もっとやりたいし、もっとやらなくてはいけないけど。「灯人」ないしは「ミツハシヒロキ」はずっと自分の経験や思想を言葉や音にして届けている。良く言えば「真っ直ぐ」なのだろうし、悪く言えば「愚直」「不器用」「ダサい」のかもしれないそれに日夜時間を費やしている。

これは謙遜ではなくずっと思っているけれど、俺は人として間違いなく何かが欠けていて、誰かが1の労力でこなせることを10以上は労力をかけないとこなせない奴だ。本当に不便だけど、その10の労力でこなしたり、悩んだり、試行錯誤した結果や過程が楽曲やライブになっている。「この言葉やライブが誰かの何かになれば」と思うし言うけれど、結局音楽や芸術は突き詰めて考えればただのエゴの結晶で。間違いなく俺の作ってきたそれらもエゴの結晶だった。それで良いと思っていたし、それで良いのか?とも感じていた。大きな矛盾だ。

この音楽がもっと評価されなきゃいけないし、そのために足りないものはもっと埋めたいと今は思う。これは考え方が「変わった」というよりも「増えた」感覚に近いのだが、そのためにライブや楽曲がもっと誰かの生活の端で鳴ったり想起させられるものでありたいとも考えるようになった。そして、今まで楽曲を書いている時は「日記」の感覚だったが、それらは「手紙」としても間違いなく機能しているものだ、と気がついた。「記録」ではなく「日記」の時点で何かしらの思いが詰められているものだった。あくまで自分のために書いていたそれらを。誰かに向けた「手紙」にもなりうるそれらを。どう渡すのか、どう受け取ってもらいたいか、どのように刺したいか、をこの一年で沢山考えた。考えるきっかけは昨年のツアーを回る中で知らない土地で音楽を鳴らしていく中で感じたものだったり、CRYAMYの野音ワンマンを見に行って感じたものだった(CRYAMYの話は今度またきちんと書きたい)。

そして今年「Hit the horn」と称して長く続く連続企画を打つことを決めた。「クラクションを鳴らせ」という意味のタイトルは大好きなSHANKの"Departure"のサビから拝借した。

 

youtu.be

 

灯人の、そして俺のホームSound Stream sakuraは都心までは電車で行けるが、やはり千葉県佐倉市というローカルな街にあるライブハウスだ。この街で鳴る俺らの音楽がクラクションのように響いて、遠い誰かに届いてほしい思いでこのタイトルをつけた。そのクラクションは警鐘でもあるし、朗報でもあるし、願いでもあった。ここまで開催した2回の間でもバンドは間違いなく進歩してライブは洗練されてきた。ずっと共演したかったバンドやもっと仲間になりたいバンドをお呼びすることも出来て、そこに頼れる地元の仲間がいて間違いない一日をそれぞれ作れた。この間でくさのねフェスへの出演もやっと決めた。少しずつ灯人やミツハシヒロキの周りに仲間や期待をしてくれる誰かが増えてきた。良い傾向だ。

 

 

ここまで大きな事件は無くバンドをやってこれた裏で、暮らしの中では一人で痛みに耐えているばかりだった。それを音楽や言葉にするつもりで、やってきていたけど少しガス切れではあった。一人で涙を流しながら家路についた日も多くあった。特に4月後半~5月中旬あたりは、周りにどう見えていたかはわからないが、疲弊し切った心は行く先を失っていた。実はかなりギリギリでライブやイベントに賭けていた側面があった。

Hit the horn Vol.2の時にいつも一緒に飲んでくれるバーの常連の方々が初めてライブに来てくれた。ライブハウスにライブを観にくるのは久しぶりだ、と伝えてくれた男女がいたのだが、二人は一番手からライブを観てくれていた。いろんなバンドの感想を都度教えてくれたし、俺が好きなバンド達に敬意を持って観てくれたのがすごく嬉しかった。企画を組んでバンドを呼ぶときは、仲の良い友達を誰かに紹介するような気持ちになるのだが、ライブハウスに慣れていない二人が、初めて見るバンド達を快く受け入れてくれたのがすごく嬉しかった。

帰り際に二人は「灯人よかった。すごく元気をもらったわ、ありがとう!」とも言ってくれた。感謝を言わなきゃいけないのは俺の方なのに。

俺は前述の通り、まるで日記のように作ってきたそれらの楽曲を、ライブで手紙にしていくのに試行錯誤していて、全力で投げる言葉や音はライブハウスの暗闇に吸い込まれていくばかりだった。果たして当たっているのか、刺さっているのかわからないその行為を続けていくには心はすり減っていて、でもその気持ちも状況も全て本物だから、「きっといつかは誰か分かってくれる」と信じて沢山を曝け出して投げていた。恐らくだが、ここまでもきっと誰かに当たってはいたのだとは思う。でもそれをきちんと確認できたことは無かった。この日彼らの言葉を聞いた時に、暗闇に投げ続けていたそれらが初めて音を立てて当たったような気がして、やっと今までが間違いでは無かったと認めることが出来た。

ラクションはちゃんと聞こえていたのだ。

 

 

今までの俺だったら、そんな言葉すらも「お世辞だ」と吐き捨てていただろうけれど、そんなことは思いたくなかった。その言葉を何の歪みもなく真っ直ぐ受け取れる自分でいたかった。そう思わせてくれたのは、俺がこの一年やってきたことや出会ってきたもの全てからだった。腐すことよりも純粋に受け取る自分の方を選択したい。それは信じてくれた誰かのためでもあり、共に歩いてくれた仲間のためでもあり、協力してくれる環境のためでもある。そして、そういう背中を見せてくれた憧れの存在や先輩や仲間のようになりたいからでもある。この思いはある種の覚悟でもある。歯を食いしばってでも認めたい覚悟は、やはりライブハウスから始まっていた。

 

 

相変わらず血の流れない重傷を多く負って、血が流れない代わりに涙が流れる日も多い。やっぱり俺は強くないみたいだ。ただ、その弱さで拾える誰かの思いがあるのならば、その傲慢を突き通すべきなのだろう。

 

 

きっとそのために唄やギターがあるはずだ。

 

2025/3/28 March

突如現れる眩暈に悩まされている。なかなか治らない。かかりつけの耳鼻科で受けた聴力検査の結果は良好。恐らく三半規管ではなく、脳かそれ以外が原因なのだろうけど、どうしても病院に行く時間が取れず放置している。段々頻度も強さも減ってきているので、治ってきている(?)のかもしれない。しかしながら、トリガーもわからず急に起きるソレと向き合う日々に、嫌気がさし始めているのも事実。先日インスタで有識者の見解を求めたところ、脳出血だとかやたら仰々しい名前が並んでいたので早く原因を突き止めたいが……。最近はありがたいことに忙しくしていて、どうにもこうにも時間が取りにくい。長生きする気持ちや理由はずっと無いし、今年は朽ち果てるまで自分を虐めるつもりでいたが、急に倒れて誰かに迷惑はかけたくない(とは書いたが急に倒れるほど頑張れていないのでもう少し精進します)。漠然と焦って日々スタジオワークやら何やらに勤しんでいるが、少し休もう……と気を失うようにベッドに倒れこむばかりだ。
 
生き急いでいる、気がする。だが生き急ぐには人生の時間と俺の気力と体力が無さすぎる。今日も「一日分の鉄分を摂れる飲むヨーグルト」を片手に身体に鞭を打つのである。
 
眩暈で病院に行く気がなかなか起きないのも、原因の検討が薄々ついているからだ。眩暈が「起きやすい」のが大体姿勢を変えたときや重い荷物(ギターとか!)を降ろしたタイミングなので、恐らく放置し続けている首肩の凝りが原因だ。先日のボイトレで斜角筋(首と肩を繋ぐハの字型の筋肉)が異常に凝っていると言われ、先生が揉んでくれたのだが、ほんの少しの力で悲鳴を挙げてしまった。かなり凝っている様だ。反り腰もあり、姿勢も悪く、かなり身体に負担をかけている。カイロプラクティック系の整体に行った方が良いよ、とのアドバイスをいただいたので近々向かわなければいけない(今夜予約した)。眩暈も同時に治ることを期待して。何にせよ俺の身体は不便すぎる。

そんな悩みも抱えつつだがバンドの新曲を書いている。「sonic」という曲は先日のふりかけごはんの企画で披露した。実はもう一曲書いていて「並木道/March」という曲がある。以前から演奏している「エンドロール/February」という曲(これは弾き語りでしかやっていない)の続編みたいなイメージで制作を始めた。作曲の時点でバンドに持っていくことを想定して作った。まだバンドアレンジは進んでいないが、敬愛する北海道のバンドの匂いがする楽曲にするつもりだ。先日の弾き語りで早速披露したが、改めて練り直して身体に染み込ませていければ、と思う。作詞についても前述の「エンドロール/February」の続きを描くような気持ちで言葉を綴った。珍しく、作詞には時間が掛からず、合わせて1時間程で書けた。3月。出会い、別れ、始まり、終わりを彩るような感覚で、全編通して読んだ時に像が浮かぶような詞にした。「帰れないのは 眩しいのは 確かめていた証だから」という一節があるが、これは俺が考える時間とか季節の無常さ(同時に残酷さ)を書いていて、イメージした「3月」や「春」を表現する時にこのフレーズを入れない訳にはいかなかった。
満足したり頭を抱えたりをきっと繰り返すけど、俺に、そしてきっと誰に対しても春が来る。答えの無い問いにも、行き場のない気持ちにも、折り合いをつけて渡す日が来るのだ。
 
相変わらず寒暖差も激しく、風邪をひく人も多いけど、これを読んでいる貴方はどうか身体には気を付けて。
俺も気を付けます。
きっとあと少しで春が来るはず。待ち焦がれた春が。

2025/2/24

先日、西加奈子さんの「サラバ!」を読了した。長い小説だった。「あなたが信じたいものを、他の誰かに委ねてはいけない」と繰り返し訴えてくる血の通った小説だった。誰かの目線、世相、偏見、その他諸々に惑わされるのではなく、自分で選択しなくてはいけないのだな、と改めて思った。ずっと誰かの顔色を窺って生きてきた自分の背中を、小さく、だけどはっきりと押された瞬間だった。

 

 

とはいえ、何かを信じること或いは選択することにはやはり覚悟が必要で、きっとどこかで疑いながら歩んでいくのだろう。覚悟とかリスクってヤツを昨今は考えすぎて、何をするにも消極的になってしまう自分がずっといるけれど、「いや、お前がリスク取れないで一体誰が背負えるんだ!」とか日々言い聞かせている。「自分には何もない」と未だに思うけど、「"何もない"がある」はずだから、きっと0ではないはずなのだ(伝わるだろうか?)。なりたい自分、得たい名声、思い描く幸せ云々をこの手で掴むべく、まずは背負わないといけない気がしている。

 

 

最近仲良くしている地元のパン屋の店長に「ヒロキ君は真面目すぎるよ」と呆れられたばかりなのを思い出した。こんなカスみたいな文章を書いていたらまた言われてしまう。さっさと選択しろ!そして嫌われろ!「たまには褒められたい」とか一瞬でも思うな!早く死ね!クソが!自惚れるな!馬鹿!死ね!

 

 

俺が俺をぶん殴る毎日をまた今日から。

2025/1/1

きっと誰のためでも、何かのためでもなく、続いていくのだろう。当たり前だが過去はどう足掻いても変えられるはずもなく、現在にピントを合わせても合わせた途端にそれは過去に変わる。未来って奴は途方もなく続いている様だし、そこへ続く道を考えるとまさに今ピントを合わせようとした現在の地続きであることを思い知らされる。「果たして意味はあるのか」「きっと何も変わらない」「やっぱり上手くいかない」を繰り返して、いっそのこと全部辞めてしまおうかとも考えてしまうけど、結局そんな選択はしなかったし、年越しも相変わらずライブハウスで迎えた。自分の人生が極端に明るくなるような兆しはきっと今年も見えないだろうし、何かが劇的に変わるようなきっかけもきっと無いだろう。ただ昨年と同じように、希望にも満たないような小さな思い出がわずかに生まれる予感は漠然としている。真っ暗な夜空にまばらに光る星のようなそれらを少しでもかき集める、そんな一年を望んでいる。

 

 

この生に今のところ意味は無い。ただ、誰かや何かのためでもなく続いていくのだろう。とはいえ、今年に対して望むことがあるとするならば、友達には元気でいてほしい。誰かの元気、活気、その他諸々に俺は生かされている気がするから。