2024/3/26

明日の朝どうでも良くなるような会話も誰かに伝えたくなるような話も、少しずつ俺という人間を俺たらしめている要因になっていて。一つずつそういうあれこれを大事にして返していくような人生を送りたいし、出会ったからには返せるような人間でいたいし、そういうことを本気で思える瞬間が増えたら、自分の見える景色は意思を持って色づくのだろう。こんな雨の日でさえ。

2024/3/19

いつまでこの呼吸が続くのか考えてみたときに酷く動揺する。こんな気持ち、こんな日々、こんなやるせなさ、こんな寂しさがどこまでも続くのであれば、出来るだけ早く消えたい。出来るだけ人に迷惑をかけない方法で。明日も明後日も今日と同じならば、一週間後も一ヶ月後も一年後も同じならば、何のために俺は俺をやるのだろうか。例えば、がやっぱり、になる時果たして俺はそれを静かに受け入れるのだろうか。その時せめて穏やかな気持ちでいられるのだろうか。果たして。

2024/3/17 雑記

『居場所』や『安心』の類に対して誠実に向き合った時に、何度考えてもそれらを自分の内側に作るしか無い、と結論づいてしまった。この数週間で沢山のライブをやったり、人と話したり、または考えたりする中で、じんわりと疲弊した心身は未だに癒きらないままで。誰かに頼ることであったり、何かに縋ることであったり、を試してみたけれど、どうにもこうにも埋まらない空洞に風が吹き抜けて間抜けな音を立てるばかりで「なんだかなぁ」と溜め息を漏らした。そういえば昨日初めてシーシャを吸ってみて、まあこんな娯楽も悪くないと思うのと同時に、やはり冷えたビールが一番自分に合っている様な気もした。あれはあれで良い経験だった。帰って寝る前に好きなラジオを流していたけど、まだ自身の東京ドーム公演の話からラジオを始めるオードリーにほくそ笑んだりして、『お笑い』を生業とする人たちの存在がこの数年でかなり大きくなっているのを感じながら微睡の中に落ちていった。

 

 

そろそろ春が来るらしく、コートが必要じゃなくなってきているそうだし、ラジオを聴きながら、或いは読めてない本を持って、或いは缶ビールを片手に持ちながらでも良い、近くの公園に桜でも観に行きたい。俺の居場所は俺の内側に少しずつ出来ている。はず。

2024/2/13

音楽含めた芸術が『救い』で在るのではなく、その芸術を感じた人それぞれがどうにか折り合いをつけて『自分自身を救って』いるだけだと常々思う。しかし、俺が俺自身を救うのは到底出来そうもなく、現状は様々な芸術にただ縋っているだけである。他に縋るものが何も無かっただけだ。新しい曲をバンドでもアコでも作ってて、さあ歌詞をどうしよう?何を描こう?と考えた時に、言いたいことは案外無くて。勿論今まで伝えたことを同じようにただただ言っても良いし、自分にとって大切なことであるのならば寧ろその手法は取るべきだが。しかし、ただ縋りつくことしか出来ずギリギリで保っている今の俺が描くべきは、その幼さや拙さのままで"情けない"と"辛い"と"苦しい"を実直に太字で記すことだと感じている。何にせよバンドの新曲は良い具合に仕上がりそうな気はしてます。

 

https://youtu.be/vngPMNcse6k?si=8bba0OBgQKPcpgB_

2024/2/1

「生まれてこなければ良かった」と思うことに慣れてしまった。かつて『ぼんやりした不安』を理由に自殺した文豪も同じ気持ちだったのだろうか、と思いを馳せる。今回の生で人生を肯定したい気持ちもあるが、どうにもこうにも疲れてしまった心が明日へと向けないままズルズルと日付を越している。"生まれてきた理由"も"生きてきた理由"も"生きていく理由"も勝手に産み落とされて自分で見つけていけ、だなんてどうにも理不尽な話ではないだろうか。少なくともさよならポエジーは新譜を出すそうだし、今夜アユさんはブログを更新するそうだし、ハイスタはライブをするそうだし、灯人もライブがたくさん決まっている訳で。期待できるそれらの予定が、仰々しい決断を先延ばしにし、足取りを前に進めているのだ。俯いたままだとしても。

2024/1/16

優しくされたい、肯定されたい、幸せになりたい、と自分が思っている様で悲しい。優しくするのも、肯定するのも、幸せにするのも、自分自身でしかない。それはわかっているけれど。誰かを鏡に救われることなど無い、きっと。俺を許すのは俺自身だ。酒が無いと安定しなくなってきた昨今、飲み間違えた向精神薬のせいでやたらと目が冴えて嫌なことばかり考える。「死にたい」はもう無い。「生きたい」も無い。「消えたい」が近い。できれば存在が元から無かったことになればそれが本望。

 

明日もきちんと仕事に行く。

2024/1/3

久々にライブハウス以外で年を越した。年越しと同時にテキーラで乾杯する、という今どきの大学生でもやらないような年越しをした。いつものお店は大晦日の23:50ごろに慌ただしく常連客が流れ込んできた。やはり『年を越す』という行為はどこの誰にとっても特別なものだった様だ。20代半ば、"アラサー"の四文字が日に日に濃くなっていくのを感じる今日この頃、「どうでもいい」と切り捨ててしまうものが増えてきた。大晦日に乾杯した30-50代の彼や彼女達の様に、特別な日に特別な場所で特別な時間を過ごす選択も、いつの日か「どうでもいい」の一言で切り捨てられてしまうのだろうか。俺はいつまで若者でいられるのだろうか。くだらない話を積らせた年の瀬、頭の片隅でそんな事を考えていた。

 

 

いつものお店でゆっくり過ごして、初日の出でも見て帰ろうかと思ったが、話をしている間にぼんやりとした不安が頭に押し寄せて、「今年もよろしく」と挨拶を残して店を出た。コンビニで缶ビールを買ってしばしの散歩。一月の風は雑居ビルの間をすり抜けて頬を切り裂く様に通り過ぎた。大晦日だといっても店のシャッターは降りたままで、ひどく静かで寂しい夜だった。しかしながら駅の反対側に向かうと、カウントダウンジャパン帰りの人々と初詣に向かう人々が駅前に多く屯していて、人それぞれの年末の過ごし方を同時に見た気がした。

 

 

ELLEGARDENのTシャツを着た青年の背中に「そういえばカウントダウンジャパンに一度も行ったことないなぁ」と思い出す。昨今のフェスブーム等から鑑みるに、ここ最近は音楽を『聴く』よりも『楽しむ』方に世間の興味や関心が向いている気がする。誰と何をするのか、の方が大事で、だからこそフェスに『参戦』という言葉が使われている気もする(ものすごく大雑把な考察)。ある意味、誰もが当事者であるのだろう。その歌詞やメロディや演者の一挙手一投足に、自分の中の言葉にならないエモーショナルな部分を重ねているからこそ、感情が動く。動かされる。それは板の上でも下でもそう。「お客さんから如何に回収するべきか」と白幡さんに先日言われた。様々な現場を多く経験して、あらゆる現場で回収する術を身につけていこう、と決意した。

 

 

航空機の炎上も地震も遠くで起こっているようで、とても近くにあって。近くにいる仲間も、遠い街で出会った誰かも、交わした乾杯も、星になったあの人も、政治も、ライブハウスも、音楽も。とても近く、とても遠く。そしてとても近い。いかに自分が当事者と感じているかどうかだろう。どうでもいい、そんなことはない。あれこれと考えている年の瀬、年初め。