2024/1/3

久々にライブハウス以外で年を越した。年越しと同時にテキーラで乾杯する、という今どきの大学生でもやらないような年越しをした。いつものお店は大晦日の23:50ごろに慌ただしく常連客が流れ込んできた。やはり『年を越す』という行為はどこの誰にとっても特別なものだった様だ。20代半ば、"アラサー"の四文字が日に日に濃くなっていくのを感じる今日この頃、「どうでもいい」と切り捨ててしまうものが増えてきた。大晦日に乾杯した30-50代の彼や彼女達の様に、特別な日に特別な場所で特別な時間を過ごす選択も、いつの日か「どうでもいい」の一言で切り捨てられてしまうのだろうか。俺はいつまで若者でいられるのだろうか。くだらない話を積らせた年の瀬、頭の片隅でそんな事を考えていた。

 

 

いつものお店でゆっくり過ごして、初日の出でも見て帰ろうかと思ったが、話をしている間にぼんやりとした不安が頭に押し寄せて、「今年もよろしく」と挨拶を残して店を出た。コンビニで缶ビールを買ってしばしの散歩。一月の風は雑居ビルの間をすり抜けて頬を切り裂く様に通り過ぎた。大晦日だといっても店のシャッターは降りたままで、ひどく静かで寂しい夜だった。しかしながら駅の反対側に向かうと、カウントダウンジャパン帰りの人々と初詣に向かう人々が駅前に多く屯していて、人それぞれの年末の過ごし方を同時に見た気がした。

 

 

ELLEGARDENのTシャツを着た青年の背中に「そういえばカウントダウンジャパンに一度も行ったことないなぁ」と思い出す。昨今のフェスブーム等から鑑みるに、ここ最近は音楽を『聴く』よりも『楽しむ』方に世間の興味や関心が向いている気がする。誰と何をするのか、の方が大事で、だからこそフェスに『参戦』という言葉が使われている気もする(ものすごく大雑把な考察)。ある意味、誰もが当事者であるのだろう。その歌詞やメロディや演者の一挙手一投足に、自分の中の言葉にならないエモーショナルな部分を重ねているからこそ、感情が動く。動かされる。それは板の上でも下でもそう。「お客さんから如何に回収するべきか」と白幡さんに先日言われた。様々な現場を多く経験して、あらゆる現場で回収する術を身につけていこう、と決意した。

 

 

航空機の炎上も地震も遠くで起こっているようで、とても近くにあって。近くにいる仲間も、遠い街で出会った誰かも、交わした乾杯も、星になったあの人も、政治も、ライブハウスも、音楽も。とても近く、とても遠く。そしてとても近い。いかに自分が当事者と感じているかどうかだろう。どうでもいい、そんなことはない。あれこれと考えている年の瀬、年初め。