何気なく放った言葉が時に誰かを傷つけたり救っていたりするのをずっと眺めてきた。時には自分ごとのように感じたり、逆に同じような言葉を自分なりの方法で投げてみたりもした。「当たったな」「大きく外れたな」「掠ったな」と投げるたびに思って、軌道を徐々に修正し続けた。この年齢になってもそれは続いている。昨日は荻窪の体育館で卓球をして、ラケットの向きや振り方を自然と変えている自分に対して、そんなことをふと考えてみたりもした。
昨晩の卓球の後はとある人と飲んでいて、俺の態度や言葉一つでその人を喜ばせ、怒らせて、悲しませてしまった。頭の中では相変わらず卓球ボールのラリーが続いていたけれど、ラケットの振り方や向きが同じでも、エモーショナルの部分(まさに言語化が難しい部分)で俺は目の前の人を追い詰めることも励ますこともできるのだなと感じた。(もちろんそれも傲慢であることは分かっている。)俺に足りてなくて、相手が求めているものを考えながら、総武線に乗った夕方。どうしたら伝わったんだろうか、どうしたら良かったんだろうとか考えていたら、イヤホンでWith A Splashが「今日みたいでいい また会おうってだけ言いたいんだ と思って」と歌っていた。「また会おう」って言えたらもっとみんなで笑い合える気もして、そしたらもっと最高なはずで。そのエモーショナルの伝え方をもっと考えたいと思った。ラケットの振り方も同じくらい大事だけど。