2021/12/14 羊をめぐる冒険

村上春樹氏著の「羊をめぐる冒険」を読んだ。

仕事後に読破して、解説をネットで読んでいたら寝落ちしてしまい、先ほど起きて飯と風呂を済まし今に至る。その間ずっと自分と主人公「僕」との共通点を考えていた。

 

(以下、「羊をめぐる冒険」のネタバレ含みます)

 

妻が「僕」に残した「でも、あなたと一緒にいてももうどこにもいけないのよ」というセリフ、そして黒服の男が言った「君の辿る運命は非現実的な凡庸さが辿る運命でもある」というセリフの意味がずっとわからなかった。しかし、鼠が言った「もし一般論の国というのがあったら、君はそこで王様になれるよ」の一言で自分の中で数年間ぼやけていた全てが繋がった気がした。

 

最近は多様性が重要視される社会になった。就活生が「ダイバーシティ」の言葉を聞かない日は恐らく無いだろう。多様性が重要視されて「みんな違ってみんな良い」とまでは行かずとも、「まあみんな違うよね、いろんな意見が合って良いよね」くらいのバランス感を人々は持ち始めているように感じる。(それが良いか悪いかの話ではない)

 

しかし、その風潮が逆に「正しさ」を求める人々を産んでいるような気もしている。みんなが別々の考えを持っていて、正しさは自分の中に持っていれば良いのに。そういう社会が目の前に来ているのに「正解が何であるか」を求める人が消えないのは何故だろう。

 

俺を含め沢山の人が、自分が思っている以上に誰かの目を気にしている。

 

俺は昔から「変わっている」と言われることが多い。昔、保育所に通っていたころだろうか。確か「かえるの歌」を保育所のクラス全員で保護者の前で歌う、といった催しがあった。今で言う「お遊戯会」のようなことだろうか。そこではクラス全員が画用紙か何かに印刷された蛙の顔を切り抜いてお面のようにして被ることになっていた。蛙が印刷された画用紙は白紙で、そこに子供達それぞれがクレヨンで色塗りをして当日に臨んだ。先生からは好きに色を塗って良いように言われていたと思う。蛙は当たり前だが一般的に緑色で描かれることが多いので、大体の子供達が緑のクレヨンをすり減らして、時にはほっぺだけ赤く塗って、子供達各々の蛙のお面を作った。

当時のミツハシ少年は、みんなが似たような蛙のお面を作っているのが気に入らなかったのか、それとも自分だけ目立ちたかったのか、好きに塗っていいと言われたからか、緑色のクレヨンを一度も手に取らなかった。今思うと本当に不思議な話だが、当時のミツハシ少年は赤色のクレヨンと青色のクレヨンを取り、色がついていない蛙のお面の左半分を真っ赤に塗り、右半分を真っ青に塗った。蛙の目も口も青と赤に塗った。何の疑問も無かった。何の疑問も無かったし、自分ではとっておきのお面が出来たと誇らしげだった。誰も俺と同じお面を持っている子はクラスにいなかった。

そして迎えたお遊戯会当日。緑の蛙が並んでいる中、一人だけ赤と青の歪なお面をつけた一人の少年はもちろん視線を大きく浴びた。母親も喜んでくれると思った。そして家に帰ると母に言われた。

「あんたねぇ…蛙見たことないの?蛙って緑色でしょ?お母さん一人だけ赤と青の蛙がいて恥ずかしかったわ」

と吐き捨てるように言われた。喜んでもらえると思った少年は拍子抜けしたような気分で歪なお面を握りしめていた。とっておきのお面だったのに。喜んでもらえると思ったのに。悲しいと寂しいが混じった気持ちだった。

 

他にもある。

ランドセルを買ってもらうときに、赤が好きだったから赤色のランドセルを欲しがったら「赤色は女の子が背負うものだからやめなさい」と言われたことや、スマートフォンが世の中に広まった頃に、androidを使っていたというだけでお金が無くて可哀想と言われたことや、ギターが好きだったから軽音楽部に入部希望を出しただけなのに父親に「軽音楽部なんて部活じゃない」と言われ、母親からは「私はそんなことをさせたいがために高校受験の塾代を払っていた訳じゃない」と怒鳴られたことや、、、挙げてみればキリがない。

今は蛙は緑色に塗るし、きっと黒のランドセルを欲しがるし、iPhoneを好んで使っている。ただ、、、申し訳ないが軽音楽部には誰に何を言われずとも入ると思う。

 

話が逸れてしまった。

 

俺が思うに多様性っていうのは「蛙のお面を赤と青に塗るのを許されること」だと思う。きっとそういう人たちが救われるべき社会に近づいているのに、みんなが正解を求めている。みんなが「蛙 お面 何色」とgoogle検索している。そして出来るだけ一般論に、世の中の正解に合わせるようにしている。赤と青の蛙は間違っている、とされる。

羊をめぐる冒険」の主人公の「僕」は"非現実的な凡庸さ"を持っていると指摘される。一般論を並べて会話をするが、それは「自分自身の半分」でしかない。そこに肝心の「僕」自身はいないのである。でも僕達が話したいのは寧ろ"現実的な凡庸さ"が生み出すものだと思う。「僕」が最終的に妻や耳の美しい彼女や鼠を失ったのは、「僕」自身の"非現実的な凡庸さ"が原因であるようにも思える。羊男の言う通り「あんたが自分のことしか考えてなかったから」である。一般論を並べても、外から見ると自分の世界に閉じこもっているだけで、結果的に誰かを悲しませたり傷つけてしまうのだ。

 

多様性を本当は求めているのに、僕達は一般論を語って、誰かをステレオタイプにはめてしまう。きっとそれを繰り返していると気がつかぬうちに大事なものを失ってしまうような、気が付かずに見過ごしてしまうような気がした。